
すごすぎて、笑うしかない…。
わたしは大谷翔平選手のプレーを見ると感動と同時に、ある種の絶望を感じるんです。
打って、投げて、走って、笑顔も爽やかで、英語もペラペラ。
ついでに結婚もして、愛犬もかわいい。
まさに完璧!
でも、そんな完璧さにちょっとだけ胸がざわつくときがある。
もしかすると、大谷翔平という存在は、「今の時代の生きづらさ」を、ある意味で象徴しているのかもしれないとふと、思うことがあります。
天才が、科学的に一生懸命努力できる時代
昔から「才能のある人」はいました。
でも、今の大谷選手のように、それを最新のスポーツ科学で研ぎ澄まし、努力を積み重ね、完璧に発揮できる環境は、過去には存在しなかった。
考えてみれば、日本だってほんの80年前は戦後でした。
食べ物も今よりままならず、体を鍛える設備もノウハウもなかった。
うさぎとびをして、水を飲まない。
そんなことが当たり前でした。
しかし現代は大谷選手の故郷、花巻だって食べ物は豊富で、少なくとも正しい指導ができる野球のコーチがいて、バットもグローブも買えて、グランドもある。
そこまで恵まれた環境が存在する時代は、人類の歴史でこれまでなかったのかもしれません。
きっと前時代は生まれ落ちた才能が能力を発揮することなく終わっていった事例が、たくさんあったことでしょう。
しかし現代では、日本のどこにその才能が生まれ落ちても、余すことなくキャッチアップして育て上げる環境が整っています。
似たような構図が、あらゆるジャンルで
そしてこれはスポーツだけじゃない気がします。
あらゆるジャンルで天才たちが必死で努力する(できる)時代になった。
・音楽なら、SNS時代に合ったキャッチーな才能を持つ若者
・ビジネスなら、起業経験が豊富で英語も使いこなすZ世代
・アートもプログラミングも、ほんの一部の超人が目立つようになった
ジャンルごとの“大谷翔平”が、きっと至る所にいるのではないでしょうか。
生きづらさとは、敗北感
かくして、凡人が努力しても絶対に勝てない時代が到来したような気がします。
特に「お金」は、オール・オア・ナッシングの傾向があります。
世の中がインフレしているからそのお金が平等に配られるわけではなく、勝者がそれを総取りする。
お金はそんな原理原則だし、基本的にはそれでよいのだと思います。
しかし「努力する天才」との競争は、多くの人にとって逆転は不可能で、いたずらに敗北感ばかりが募ることになる。
つまるところ、その「何をしても勝てない」という敗北感が「生きづらい」という言葉で表現されるのではないでしょうか。
敗北を認め、競争の外側へ
勝てないときに大事なのは、潔く敗北を認めることだと思います。
「負けてない!負けてない!」と言い張ると、敗北を周りのせいにしてしまう。
周りのせいにするとは、つまり人と比べることなので、一生、敗北感がついて回ることになります。
大事なのは敗北を認め、勝者に拍手を送ること。
逆に勝者も潔い敗者を讃えることが必要でしょう。
たまに大きな間違いを起こす人を「無敵の人」と表現することがあります。
無敵の人とはつまり「無敵になってまで勝ちたい人」
まるで鬼滅の刃の「鬼」のようです。
絶対に負けを認められない幼稚さがそこに見え隠れしています。
そこから抜け出して、潔い敗者になることが、人生の少なくない場面で求められている気がします。
五感を取り戻そう
だけど「潔い敗北」には、ちょっとしたご褒美もある気がします。
わたしが最近、大事にしているのは五感を刺激したり、癒やすこと。
・おいしいものを食べる
・風にふかれて散歩する
・サウナを楽しむ
落ち着いて考えると、やっぱり世の中は豊かなんです。
それは天才だけに限らず、わたしたち凡人にとっても。
栄養のある食べ物、清潔な衣服、安全な家屋。
それらは少し時代を遡ればなかったものだし、今だって世界にはそうなっていない地域があります。
だとすれば、わたしたちはそれをしっかり味わないとダメではないでしょうか。
そして味わおうとしたとき、敗北を認められず「悔しい!悔しい!」と思っていたら、目の前のことに集中できません。
勝ってようが、負けてようが、目の前のラーメンの美味しさは間違いないのに。
余計なことはおいておいて、その美味しさを目一杯味わうべきではないでしょうか?
生きづらいけど、楽しい時代
こう書くと、わたしが大谷翔平選手のことを嫌いに見えるかもしれません。
しかし正直言って、大好きです(笑)
彼のプレーを毎朝見ていると本当にワクワクするし、二刀流ならではの夢をファンにたくさん見せてくれます。
「生きづらさの象徴」なんて嫌味なことを言ってみたものの、実はポジティブなエネルギーをたくさん貰っている。
だけど、そうやって素直に元気がもらえるのも、やっぱり「潔い敗北」という心持ちが必要な気がします。
頭で考えて勝った負けたと一喜一憂するのもたまにはよいけど、日常の中でもっとたくさん、深く味わうべきことがあるはず。
わたしは小さなことにも目を凝らして、たくさん味わっていきたいと思います。